野田サトルのブログ
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スギモトサイチのこと

9/25/2014

 
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上から18年式、30年式騎兵、30年式
ドラマ「坂の上の雲」で小道具として使われたものをお借りした。
木材と金属で作られたもの。
三丁持って帰ったが、とんでもなく重い。
お借りした製作所にて、横に長いアタッシュ
ケースに銃をいれ、
担当さんと二人で近くの駅まで歩いたのだが、気分はゴルゴ13どころじゃなかった。
ヒーコラヒーコラバヒンバヒンと茶魔語を言いながら歩いた。


一番下のは「ゴールデンカムイ」主人公・杉元佐一が持っている銃。実物は4kgらしい。
これはボルトが稼動する程度の鉄の塊なので実物よりは重いはずだ。
構えているところを撮影してもらうが、重くて腕が下がってくる。
当時の日本人の平均身長は150センチ程度。
こんなものを持って走り回っていたのかと思うと、当時の人間はタフだったんだなあと感慨にふける。



自分の曽祖父は屯田兵だ。
恥ずかしながらつい何年か前まで曽祖父のことについてあまり知っておらず、
新連載の題材を探していたときに曽祖父を思い出し、父に詳しいことを聞いてみた。




曽祖父は第七師団、歩兵27連隊乗馬隊に所属していた。
いわゆる「北鎮部隊」だ。
作中では悪役にされているが、自分は
曽祖父が
北鎮部隊だったことに誇りを感じている。


曽祖父は一等卒として 日露戦争に出征しており、
激戦地であった旅順攻囲戦の二百三高地、その後の 奉天会戦に参加していた。

疎いひとに簡単に説明するなら、数々の映画、ドラマ、小説にもなった有名な戦いで
とにかくムッチャクチャ死んだ。


ある時、曽祖父のいた500名程度の大隊が2,000人のロシア兵に包囲された。
絶体絶命の状況で上官は、この包囲網を突破し味方の援軍を呼ぶ任務を、ある兵士に命じた。
それが曽祖父だった。
任務にはもう一名選ばれ、曽祖父は馬に乗り、ロシア兵の包囲網の中を全力疾走する。

鉄砲の弾が曽祖父の体をかすめ、弾が耳元を音を立てて何発も通り抜ける音が聞こえた。
このとき不思議と二人にも、乗っているそれぞれの馬にも弾は当たらなかったそうだ。

任務を命じた上官も「二人とも助からんだろうなぁ」と半ばあきらめていたらしい。
しかし曽祖父たちは無傷で包囲網を突破。
4000人の援軍を連れて戻ってきた。
それを見たロシア兵は蜘蛛の子を散らすように逃げて行ったそうだ。
部隊に戻ったとき大隊長が曽祖父を抱きかかえて迎えてくれ、大隊は一人の死者も出さずに済んだ。
その功績が認められ、曽祖父は二階級特進。金鵄勲章を賜ることとなり、死ぬまで結構な額の年金を貰っていた。




曽祖父の名前は杉本佐一だ。


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右から二行目に「上等兵 杉本佐一」とある。
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その後、60代まで生きた曽祖父は第二次世界大戦中に自宅で亡くなった。結核だった。

ちなみにゴールデンカムイの主人公は名前を借りただけに過ぎない。
自分の
曽祖父を描いてるつもりは一切無い。まったくの別人と考えている。




曽祖父を「英雄だ」なんて自慢するつもりはさらさら無い。
英雄と呼ばれるにふさわしい人物に比べれば、それはおこがましい。

ただ自分と血がつながった身内で、今の自分よりもっともっと若い時分の曽祖父が遠い異国の地で
血みどろの戦争を生き抜き、500名の命を救い、名誉とマネーを掴んだという話に、胸が熱くなる。
二十代だったときの自分、何者でもなかった自分の惨めさと比べてしまう。
自分の人生でこれまでも、これからもそんな経験ができるイベントはおそらく無い。戦争なんて無いに越したことはないんだが。

ロシア兵の銃弾が一発でも曽祖父に当たっていれば自分は今ここに存在していなかったのかと思うと
もっと真摯に生きようとも考える。



映画の小道具である、ひどく重たい三十年式歩兵銃を持ったとき、
ほんのわずかだけ曽祖父と同じ思いを感じられた気がした。

曽祖父も「この鉄砲、重てえなぁ」って思ったはずだ。

網走監獄

9/8/2014

 
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取材で北海道の網走監獄博物館へ行ってきた。

ひとりで。


広大な敷地の中に当時の建物を移築復元させた野外博物館。
ネットで下調べをしていて、画像をいくつも見ていたとき、どうも違和感があった。
ネットにあるたくさんの画像には、すべて正門に扉が無い。
監獄の厳重な門なのだから、きっと当時は木製の重厚な扉があったはずだと。
扉までは復元されてないのだろうかと思っていた。
ゴールデンカムイの一話に正門を描くつもりだったが
扉が開いてるような門だと厳重に見えない。



札幌から旭川を経由して、
汽車で7、8時間くらい。(電車のことを汽車というのが真の道産子)
せめて昼間なら車窓から見える景色を楽しめたのに、旭川から先は真っ暗闇だった。明かりひとつ無い。

23時網走に到着。ホテルは予約して無い。適当な安宿に飛び込む。
ベッドに倒れこむと、あまりの硬さに驚く。床に倒れたかと思った。
いやいや贅沢だ。ハングリーさを失ってはいけない。
漫画家を志し上京してきたときは南千住の2000円の宿に何週間か泊まっていた。
当時の南千住はまだまだドヤ街の雰囲気が残っていてホームレスが三人、
普通の公道で敷布団と掛け布団を、きっちり三つ縦に並べて寝ていたのを見てカルチャーショックを受けたものだ。
周囲とのギャップがものすごく、「元気が出るテレビ」の寝起きドッキリか何かにみえた。
いまどきコンビニを出たら地べたに座ってるホームレスに空き缶を鳴らされ小銭を催促されることがあるだろうか?
どこのニューヨークかと思った。それが当時の
南千住だった。
「北海道へは帰らない。漫画家になれなければ俺はあそこで四つ目の布団を並べて寝るのだ」と、そのとき決心した。


話がそれた。
そんなこんなで翌朝、ようやく網走監獄へ。
門の中へ入ってから裏を見ると、








やっぱりあった。扉が。

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「ほれ見てみろ!こういうことだ!」と叫んだ。

何を興奮してるんだと思われるかもしれないが作品づくりにディティールは大事だ。
現地へいって、実物を見てくることの大切さ。

前作「スピナマラダ!」だってそうだった。、書籍やDVDなどで試合の
写真や映像の資料はいくらでも手に入るが
大会のスタッフや、その機材、観客や報道陣、選手や監督の掛け声、休憩時間の様子などの資料はどこにも無い。
現地でしか
得られないもの、気付けないものはたくさんある。
作者自ら足を運んで体験したことが作品の世界観に説得力を与える。

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話はかわるが、
自分が小学生の頃、隣の家のオッサンが観光で「網走監獄に行って泣いた」という話を聞き、笑い転げた。
当然
オッサンは博物館の展示物を観て、当時の囚人たちの過酷な日々に思いをはせて涙を流したわけだが、
アホな小学生なので「網走監獄に行って泣いた」というフレーズがツボに入った。
「ディズニーランドへ行ってパレードに感動して泣いたならわかるが、何で『網走監獄』で、
しかも『囚人』を想って泣いてんだよ」って感じだったと思う。
その日から話題で隣の
オッサンが出てくると「ああ、網走監獄に行って泣いたオッサンね」と言っては笑い転げていた。

そして2014年。自分は網走監獄で泣いたオッサンになった。

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脱獄囚Tシャツをお土産に買った。左胸の網走監獄のロゴがかっこいい。仕事中に着ている。近所のスーパーにもこれで行く。



網走監獄博物館へは事前の連絡無しに、まったくの観光客として入った。職員の方たちに取材で来た事など、一切告げず東京へ帰ってきた。
後に知ったことだが、なんとここの館長さんは前作スピナマラダを好きで読んでくださっていたらしい。
嬉しかった。
道東へ観光に行かれたときは是非寄ってみて欲しい。知床や摩周湖などとセットで行くと北海道を満喫できる。

大自然の写真をたくさん撮ったが、家に帰って見返しても現地へ行って感じた壮大さは
半分も伝わってこない。







    週刊ヤングジャンプ
    「ゴールデンカムイ」連載中

    既刊
    「スピナマラダ!」全6巻

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